夏の空をつなぐ

気まぐれ(にしたくない)日記。

8月299日(5月26日)

水曜日。めちゃめちゃ風が強いなと思っていたら夕方くらいから大雨強風。雨が収まってから帰路についたら、月夜の明るさに驚かされた。

純粋理性批判の試みと論考の目指すところが大変似ているなとゆーことを改めて感じているが、しかしアプリオリな総合判断はいかにして可能かとゆー問いの論考での対応物はなんだったろうか。物理ディシプリンに頭を破壊されてしまった今となっては、アプリオリな総合判断に自然科学(物理学)の命題を入れるのは妄言に聞こえてしまうが。。。

某怪しい本にザっと目を通して、しかしまあこの著者は昔から「普通に考えれば(一般には)xxと思われる(思われている)だろうが、しかし実際は全くその逆なのだ」的な論法が好きだなあと。食傷気味ではあり、読んでてああこれはあれに似ているななどと思っていたらそれが直後に言及されるとか、まあ予想を裏切らないとゆーかなんとゆーか。 個人的な収穫はミメーシス冒頭の分析が言及されていたあたりで、(空間的・時間的)遠近法的印象は描写される事柄の取捨選択によって生み出されており(『オデュッセイア』のようにすべてのことが均等に描写されると「前景/後景」がなくなってしまう)、それはつまるところ終末論的な感覚に支えられているとゆーやつ。極度に描写の密度が濃いところと、それに比して全く描写がなされていない部分とが存在することによって、遡及的な眼差しによって遠近が感じられる(ところでこの遠近の感覚と、この叙述において出来事の(過去の)様相が必然に見えることはどう関係づくだろうか?)。セカイ系もまあこのカテゴリだろうし、ここにベンヤミン的な歴史概念を足せば、遡及的な視点の起点になっているゴールが変わることによる物語の再解釈(の可能性)による救済とゆーことになろう。アウエルバッハはえらい。B1のころに授業でおそれとおののきを扱った関係でイサク奉献の物語の(僕にとっての)もつ普遍性とゆーか、問題設定とゆーかにだいぶ取りつかれていたけれど、結局今でもその問題圏から脱出できていない気がする。

思い出しついでに書けば、天ノ少女(とゆーか殻ノ少女シリーズ)のテーマでもある瑠璃の鳥-青い鳥の話も(僕にとっては)この問題系の射程なんだよな。