夏の空をつなぐ

気まぐれ(にしたくない)日記。

8月239日

 昨日今日と久しぶりの雨でめっきり冷え込んだ。体調を崩す予感がある。
 
 雨の日は全く外に出たくないけれど、そうはいっても昨日くらいしか行く日がなかったので、秋葉原に出向いて東地和生美術監督作品展をみにいく。AB!、CharlotteTARI TARI、花いろ、凪あすの背景美術が並べてあったわけだけど、やっぱり僕としては凪あすが圧倒的によいなと感じた。続けてみるとよく分かることだけれど、たぶんAB!とCharlotteTARI TARIと花いろ/凪あすといった具合なグループでかなり印象は違って、特に凪あすとそれ以外では全然違うなと。端的にいえば、凪あす以外のやつはスーパーリアリズムぽさがあるんだけど、凪あすは明らかにリアリズムを志向していなかったんだなとゆーのがよくわかる展示だった。前者のは(リアリズム志向の結果として)建物の角張った感じとかがあって、全体的にかっちりしている硬さを感じるのに大して、凪あすは建物も小物一つとっても丸っぽさがあって、ありそうでありえない、ありえなさそうでありそう、そんな少し不思議さが感じられる。もちろん凪あすは海の中でも海人が暮らしていて、そんなところと地続きだとゆー世界観だとゆーことの影響でもあるのだろうけれど、良くも悪くも過剰なところがあって、人の存在を感じる絵になっている。つまり、世界それ自体をそのまま描くのではなく、誰かの目を通して見られた世界が描かれていて、故にリアルな風景とゆーよりも(ある視点を、すなわち、世界を)象徴する風景が多い。そういう意味で、凪あす2nd OPをみたときにも直観したけれど、やっぱり凪あすは新海っぽさがある(これは新海作品について誤解されがちな点だと思うけれど、新海作品は全くスーパーリアリズミックではなくて、むしろそこに対するエフェクト、過剰さこそがあの背景の魅力になっている)。東地氏自身が、凪あすに対するコメントみたいなところで「彼ら彼女らはすてきな風景に囲まれているんだけど、生きることに必死でそのすてきなものに気づかない、それでもすてきな世界は彼ら彼女らを包んでいる、そして、そういうことに後で写真をみて気づいたりする、そういうことを描きたかった」とゆーようなことを書いていて、思わずまさしく、と感嘆してしまった。
 理解にはある種の梯子がある。昔必死になって勉強したことを後になってからもう一度見返すと全く違う風に見えたりする。そして、そんなときにその風景を肯定したい思いに駆られる。こういった体験を人生を対象に実際にできたことがあるだろうか。高いところから人生を眺望すること。新海作品に高いところからの眺めがよく登場するのは偶然ではないだろう。と同時に、僕(たち)は凪あすのキャラクターたちがそのときみていた風景とは異なるものをみていたんだろうなあと思うけれど、凪あすの最終話のラスト、光とまなかが海をみている朝焼けのシーンは、太陽が後ろから差している中、二人が背中を向けて画面を見ている目線を同じ方向をみていて、この風景は彼ら彼女らと同じ地点からの眺めだったのかもしれないなと思う。あるいは、そうであって欲しい。

 最近は北条加蓮のことを考えながら寝るとよく眠れているような気がする。