夏の空をつなぐ

気まぐれ(にしたくない)日記。

8月279日

 先週の日曜には*君に誘われて、*君、&君、#君と宝塚を観に行く。ミュージカルの突然歌いだす感とか大変よい。夜は初めてひつじ屋に行った。安くておいしい。

 一昨昨日の木曜日には友人たちと集まってTRPGをやる。TRPGは人生2回目で、まだまだ慣れが必要だななと思った。楽しかったのでまたやりたい。
 その翌日はリズと青い鳥を観に行く。良い作品であることは間違いないとゆー直観は働くけれど、消化できた気が全くしない。ディスコミュニケイションと(隠された)才能の差の要素から、みぞれと希美をシンジとアスカに重ねてしまったり。前半はみぞれに視線がいっていたのが、気づいたら完全に希美のことをみていたのでその時点でやられたなとは思った。全体的に音にも映像にも隠喩系が張り巡らされていて、それだけではなく明示的な台詞すら何ら明示性はなく、むしろ常に根源的解釈が要求されるような場面が続いて本当に疲れるとゆーか息がつまるとゆーか、そりゃディスコミュになるわとゆーか。パンフでも言及されていた希美の「ありがとう」だって一筋縄ではいかないけれど、個人的にはみぞれが言う冒頭の疑問系「ありがとう」と、最後またその冒頭が反復される形での疑問系「ありがとう」の方が引っかかったかな。もはや最後の「ありがとう」が何に対する返答だったかも忘れてしまった。そんな隠喩の森を見させられていると、ディスコミュニケイションは台詞や顔に現れるとゆーよりも、局所的な仕草に宿るのだなあと、まあこう書いてみると当たり前なことに気づかされた。そんな中で後輩の剣崎氏(とのコミュニケイション)の安心感たるや。ともかく二回目観に行かないとなあ。

 今日はKSL Live World 2018。こう言ってはなんだけど、始まる前はそこまで期待していたわけではなかったのが、Key's Best Nightの名の通り完全にオールタイムベスト級のライブになっていたので行けて本当によかった。何より一万の軌跡とオーバー聞けたのが僥倖すぎて、そして自分がずいぶん長いことAIRCLANNAD曲をきいていなかったのだなとゆーことに気づかされて、中学高校時代から今までのことが走馬灯のように頭を駆け巡り、懐かしさやら不甲斐なさやらがこみ上げてきて泣きそうだった。やっぱり自分はKey作品に絶大な影響を受けていたんだなあと改めて思い起こすことになった。あとはだーまえが元気そうでよかったなと。そういえばNanosizeMirPhilosophyz->ささやかなはじまりだったけど、続けてきくとNanosizeMir楽曲(とゆーか塚越雄一朗氏の作曲曲)の特徴量が顕著に感じられてちょっと発見だったかも。サマポケOPのアルカテイルもよくて、新旧王道からちょっと予想外の曲まで取り混ぜで全方面的に目配せがきいており、むろん色々他にも聞きたかった曲はあるけれど、ほぼパーペキなセトリだったんじゃないかな。twitterに感想postしてたら、僕がtwitterを始めた本当の初期の頃にフォローしていた鍵っ子の人たちが観測できて、みんなの生存確認ができてよかったなあと思った一方で、もう亡くなったしまった人のことも思い出して、なんだか時の流れの無常さを感じた。
 帰宅してすぐにソララトを聞く。もう何年ぶりになるだろうか。聞いているうちに、止めどなく涙が溢れてきてしまう。僕はここまで生きてくるのに色んなものを失ってしまったとゆー感覚が強くある一方で、しかし今となってはもはや一体自分が何を失ってしまったのか思い出すことさえ叶わなくなっているとゆーことに愕然とさせられ、さらにこれからもこーゆーのが続いてゆくのだろうとゆー確かな予感に襲われて、もうひたすら悲しいやらこわいやらでどうしようもなくなってしまった。なんか最近節目節目でこの感覚ばかりに囚われている。年をとるとゆーのはこーゆーことなのか。いまCLANNADとかやり直してみると絶対に十代のときにはみえていなかった風景がみえるのだろう。

 生きてゆく 生きてゆくんだ 生きることが醜くても・・・