夏の空をつなぐ

気まぐれ(にしたくない)日記。

8月50日

simulation projectがなかなか収束してくれなくて先が見えない重圧に押しつぶされている。

 

ここ数週間で立て続けにアニメ映画が公開されている気がする。レヴュー・スタァライトFate HF第三章、ヴァイオレット ・エヴァーガーデン等。

とりあえず一番記憶に新しくまだ鑑賞時の印象が色褪せていないヴァイオレット ・エヴァーガーデンの感想を書き記しておく。ヴァイオレット ・エヴァーガーデンはあんまり覚悟も決めず観に行ったら泣かされてしまった。あんなエピソードであの絵と音楽に襲われたら人間は機械的に泣いてしまうものです。そういう意味では泣きゲー的手法だなと思った。

みていた時は作り込まれた映像と音とに圧倒されて押し切られてしまったけれど、やっぱりちょっとモヤモヤが残っている。「強く願えば叶うものだな」「強く願っても叶わない想いはどうすればよいのでしょうか」の切実さは結局願いは最終的には成就するととゆー物語的圧の前に忘れ去られてしまったように思う。これがヴァイオレット とゆーキャラクターの人生の物語であればハッピーエンドにもってゆくとゆー意味でこれは完全に正しいのだとも思うけれど、僕は結局TVシリーズからしてそうはみていなくて、例えばTVシリーズでの種々のエピソードで描かれていたのは、強く願っても叶わないことはあるけれど、それでも「手紙」は残るし、それが希望になりうるということではなかったのか、それこそ劇場版でも引用された十話は(正直記憶はあやふやなので他話数も合わせてみたら全然そんな感じではなかったかもしれない)。ヴァイオレット 周りとゆーか、郵便社周りの人はみな「強く願えば叶った」のかもしれないけれど、ヴァイオレット に手紙の代筆を依頼した人たちはそのほとんどが悉く「強く願っても叶わない」、それでも手紙はその願いを伝えてくれるし、それ故それは単なる情報伝達の手段なのではなく、ある種の共通理解をもたらしそこに幾ばくかの救いがあるのだとゆー話の構造になっていたことを思い起こすと、やっぱり今回の劇場版の話の運びには個人的には受け入れがたいところがある。端的にいえば、「願いは叶わないかもしれないけれど、手紙は届く」とゆー話だったのが逆転してしまって、いつの間にか「手紙は届かなくても願いは叶う」(とまとめてしまうのは流石に語弊があるけれども)とゆー話になっていませんでしたか。まあ冷静になってみると、タイトルがそもそもヴァイオレット ・エヴァーガーデンだし、キーワードの一つは「愛してる」なわけで、つまりはそう読めとゆーことなのだろうが、そしてそう読んだ場合は劇場版で提示されたものが一つの解には違いないのだろうが、それでもそのレイヤーではなく「強く願っても叶わない想いはどうすればよいのでしょうか」とゆーテーマを見透かしながら鑑賞してしまうとやっぱり不満が残る。もう少しいえば、映画の最後はヴァイオレットと少佐のシーンではなく、デイジーが手紙を書き送られた手紙を両親が読むシーンで終わるわけで、このことの一つの機能は、この物語/映画で描かれてきたヴァイオレットの人生の物語はある種「普遍性」をもっているのだゆーことを提示していると読めるけれど、まずそこでそれならばヴァイオレットの持っていたそれこそ「普遍的」な問いである「強く願っても叶わない想いはどうすればよいのか」に対するヴァイオレット自身がたどり着いた回答を何かしらの形で見せて欲しかったと思ってしまう。それから、ラストにデイジーのエピソードで提示されていたのは直接言葉にはできなくても、手紙なら伝えられる、ということだけれど、しかしそれはヴァイオレット ・エヴァーガーデンという作品がTVシリーズから丁寧に描いてきた「手紙」の効用を矮小化してしまっているように感じられてしまう。例えば、ヴァイオレット・エヴァーガーデンとゆー作品においては、手紙の物質性、あるいは手紙は手元に永遠に残り続けるということは大きな意味をもっていたと思うのだけれど、今劇場版では途中何度か手紙が風に飛ばされて消え去ってしまうというシーンが象徴的なように、またユリスが死の間際にリュカと電話をするシーンに象徴的なように、直接(現前的な)コミュニケイションがとれるならそっちの方がよく、「手紙」はその代替/代用品に過ぎないというメッセージが見え隠れしていたように思う。別にそれが間違っているとかいうつもりはないけれど、ヴァイオレット・エヴァーガーデンはもっと「手紙」に積極的価値があることを提示していた作品じゃなかったっけ、という戸惑いもはあった。

まあ僕の個人的選好に引きつけて読みすぎなんだ、と言われてしまえばそれまでではあるのだが。