夏の空をつなぐ

気まぐれ(にしたくない)日記。

8月125日

 先月一回も書いてなかったが、上旬の京都出張から研究方面でいろんな人と議論する機会が続いて疲れている。ありがたいことなのだろうけど。

 今日は冴えカノfes♭で豊洲に出る。行く前は完全にやる気を失っていてどうしようかと思っていたけれど、始まってみたらちゃんと楽しめたのでよかったかな。こう言ってはなんだけど、予習でキャラソンきいてたら結構よくて驚いてしまった。安野さんのちょっと力の抜けた声に一番驚いたけど。安野さんの声は生ではなつきちな時しか聞いたことがなかったので、あのふんわり優しいボイスは(アニメやCDではきいていたとはいえ)新鮮で癒された。大西氏は終始テンション高い感じでそれ自体好きな声だったのでよかったわけだけど、最後のコメントで急に泣き始めるものだからこっちもエモスイッチ押されてしまって大変だった。
 帰りがけにインターネッツをのぞいていたらfripside幕張初日(昨日)のセトリが良すぎてしばし後悔。

 最近は小旅行先だったりライブなんかのイベントに行ったりすると、その帰り道で人生の撤退戦だなーとゆー思いに捉われることが多い。たぶん今の僕は、つまり今の世界はエモさと虚無感の二極に完全に分裂してしまっていて、普段は大抵虚無感の中に住んでいるのが、遠出やライブではこの二極の分裂に分裂している自己と世界を否応でも実感せざるを得ない状況に追い込まれてしまって、一旦それに気づいてしまうと完全に頭がパンクしてしまうとゆーか、一体自分はなんで生きてんだろうとどうしようもないことを考え始めてしまう。たぶんエモさと虚無感とゆーのは全能感と無力感とか(世界との)一体感と疎外感、あたりの対立に重なっている気がする。いずれにせよ、そういった分裂状態を行き来して消耗するので生きるだけでもしんどいのに、その引き裂かれ自体に直面した日にはもう本当につらい。折角イベントに行ったのにそんな目に合わなければならない理不尽さも憎い。もっと「普通」に楽しみたかった、素朴に楽しめずにどこか冷めた目で見てしまう自分がいることがつらくなる。結局その視線はエモさ(全能感・一体感)の方を虚構だと喝破する快楽に安住している。しかしそんなことを言いつづけているとその果てには本当に全てがどうでもよくなって死ぬしかない(とゆーかより正確にはもう死んだっていい)とゆー結論しかないので、(幸福は生とともにしか存在しないことを前提するならば)どこかで世界に対するこのシニカルな視線ではない態度を取り戻して世界を肯定したい。むろんそれはエモさ万歳ではなく(個人的にはそうできるなら今すぐにでもそうしたいけれど)、とゆーのももうこの冷めた目線を完全に無視することはできないので、その虚構性も含めて、あるいはその虚構性を積極的に肯定したいとゆーことになる。大体僕がエロゲー(あるいはそれこそセカイ系か)に見出す世界観の話になってきたのでやっぱり積みゲーをやろう……。

 少し吐き出して落ち着いてきたところで安野さんのGLISTENING♭をききながら寝る。