夏の空をつなぐ

気まぐれ(にしたくない)日記。

8月255日

 昨日はModified Gravity & Cosmologyのone-day workshop。誰とも話さなかったけれど異様に疲れた。天気もダメダメだった。雨は本当に嫌い。
 そうえいば*さんからメールが来て、今週のarXiv seminarのprasentatorをやってくれと言われる。その準備ができるような精神状態じゃないので勘弁してほしいのだけど、勘弁してほしいメールを書くことすらできない。

 今日はCFC論文をひたすら読んでいた。誰でもわかる計算なんて書かなくていいから、物理的直観みたいなものが必要なところこそimplyとかで済ませずにexplicitに書いてほしいんだけどなあ。断絶を感じる。それでも時間はかかったものの進展はあったからよしとしよう。
 日が暮れてから異様な空腹感を覚えたところで、そうえいば月曜日から何も食べてないことに気づく。食堂には絶対に行きたくなかったので、仕方なく生協にいくも当然のごとく弁当は売り切れていてどうしようもなかったのでカップ麺を買う。流石に食べられないことはないだろうと思っていたのだけど、一口食べたところで気持ち悪さに耐えきれず吐いてしまったので完全に無理だった。素直にカロリーメイトあたりで済ませておけばよかった。未だに気持ち悪い。
 夜になるまでは晴れていたのに、そろそろ帰ろうかなと思った途端雨が降り始めて本当に気分が沈んだ。仕方なくやむまで待った結果、帰ってこられたのはこんな時間。悪いことが続く。ピアノが少し弾けたのが唯一の慰め。
 なんかよく考えるとここ数日は完全に鬱気味で、食欲がないのも気持ち悪いのもその症状な気もするので、一回病院に行った方がいいか。でもこういう時は本当に病院に行って少しでも人と話すことすら億劫。

 やっぱり僕は物理そのものには興味はなくて、単に認識論や存在論の手段としてしかみられないんじゃないかという思いが強くなっている。ただ、こうして物理の訓練を何年か受けて改めて実感したのは、やはり物理学者だって存在論や認識論をやっているんであって、これらはなにも哲学の専売特許ではないだなとゆーこと。もちろん逆に、この世界を支配している法則や境界条件の普遍性についての考察が物理の専売特許なわけもなく、むしろ物理や哲学(存在論や認識論)といったカテゴリー分け自体が不合理なんだと一周回って戻ってきた感がする。一度専門バカになっとかないと云々とは言うけれど、一度専門バカになってしまったら基本的にその専門バカなままでいるしかないような区分けになっているように感じる。
 しかし流れで存在論や認識論と書いてしまったけれど、僕が何年か物理をやっていて思い出しつつあるのは、僕が興味を持っているのは、この世界に何が存在するかとか、この世界はどんな仕組みで動いているかといったことよりも、「言語」なるものは一体何なのか、どうしてコミュニケイションができるのか、あるいは言語以外の世界認識とは一体何なのだろうかといった問題だったなとゆーことで。ただ、こういった広い意味での認識論と存在論は切り離せないとゆーのが昔の僕がたどり着いた信念だったはずなので、むろん無関係とゆーわけではなかったはずなんだけど。多くのことを忘れてしまった。