夏の空をつなぐ

気まぐれ(にしたくない)日記。

8月241日

 昨日。夜に#君から高校の同級生だった$君が急逝したとのメールが来る。ありふれた言い方しかできないけれど、あまりにも突然のこと過ぎて言葉がない。

 今日。大学に行くも研究が進まない。wCDMの方はそもそもDark Energy clusteringはSUでの一様成分ではないからうまくいかないのではないかという気がしてきた。tidalの方はとっかかりがいまだにつかめない。つかめたと思っていざ具体的な計算をしてみようとすると、結局何をやるべきなのかわからなくなっている。
 帰ってから『ななしのアステリズム』を読む。「恋愛」「恋人関係」の特権視、恋するきっかけとしての出来事を要請するあたりは保守的だなという感。前者はラブコメならともかくという感じだけれど、後者についてはもはやある種の強迫観念じみたものすら感じる。というのは、通常読者に提示される際には「キャラクターによる恋の自覚→回想によって遡及的にきっかけ(としての出来事)が(再)構成される」という手順を踏むのに対し、琴岡についてはそれが完全に逆転しているから。もはや、遡及的に出来事が構成されるのだという転倒を暴く批評は完全に力を失い、一周回って本当にベタに「きっかけ→恋心」という時系列による解釈こそが正しいのだと主張されている。後は、司の双子弟についても、たぶん現代的ラブコメなら、この位置づけのキャラクターというのは単に「弟だから」「相手が姉だから」というだけで好意の存在の正当化を他に要請しないけれど、アステリズムはここでもきっかけを要請する。2巻でサブエピソード的に出てくる幼なじみ組についても、きちんとその理由を過去に遡って描いているので本当にびっくりした。つまり、この作品には「妹/弟」だったり「幼なじみ」だったりは存在できないのだ。もう少し言えば、この作品世界には、理由がないものは存在できない。そういった意味で、まさに原因はあっても理由はないようなゆるふわ共同体の存続がこの作品の根底的な問題に据えられているのは正しくはある。